読みたい本が無いので、やはり自分の過去作を読んでいた。
現在販売しておらず、もう在庫が無いものだ。
二〇一七年に発売されたもので、文体などめちゃくちゃなのだが面白いと言ってくれる人もいた。
この辺には本屋さんや古本屋さんがないので、立ち読みしたり入り浸ったり通ったりすることがない。
勿論、アマゾンではいつでも買えるが、私はあまり作家を知らない。
だから、気に入った作家の本ばかり読むことになるのだ。
そもそも、私には文学の師匠がいない。
面白い作家を教えてくれる人もいない。
全て手探りで探してきた。
でも、それらはほとんど読み終えてしまった。
昔は、仕事が休みの日は古本屋に入り浸っていた。
そしてまとめ買いして、少しずつ読んでいた。
習慣でもあり、趣味でもあった。
今は、そんな楽しみから遠ざかっているのである。
リハビリセンターの最寄り駅前にはブックオフがあったが、一度も立ち寄ったことはない。
人間って疲れすぎると、本領発揮できないものだ。
かといって引越しする気は更々ない。
かつて私にロックを教えてくれた人がいたように、この作家面白いよ!と教えてくれる人がいたらどんなに楽しかろうに。
だが、幸か不幸か、いない。
故に、私は読書家にはならなかった。
自己の文体で、我流に文章を書くようになった。
これで良かったのかどうかは定かではない。
過去作を読んでいると、自分が愛おしくなる。
恋愛していた頃の心理描写や視点は、今でも関心する。
誤解のないように書いておくが、私は恋愛小説にはあまり興味が無い。
そのように断言してしまうと、まるで恋愛を否定しているようだがそうじゃない。
やはり、恋愛は人生に於いても作品創りに於いても欠かせないのだなと改めて感じる。
だからと云って、簡単にできるものではない。
昔と今で少し違う点がある。
これは致命的である。
要は、寂しさが足りないのだ。
二十代、三十代の頃は、身体の芯から震え上がるほど寂しかった。
何故ならまだまだ自分の正体がわからなかったからだ。
未確立だったわけだ。
今は、その正体がわかってきて、良くも悪くも誇りを持っている。
そうすると、怖いものが減って行く。
若かりし頃は、世の中って云うものはまるでブラックホールのような闇に包まれていた。
それで大都会東京に憧れを抱いていたのである。
実際の東京は、私にとってはとても美しく綺麗な街だけど、才能を開花させる可能性はもはや感じない。
今どき、私みたいに所持金二万円で上京するヤツはいるのだろうか?
よほどの期待がない限り、そんなリスクは背負わないだろう。
私はド阿呆な田舎者なので、東京を死に場所に選んだくらいだ。
地方でくすぶっているくらいなら、大都会で死んでやろうと思って上京したのだから笑える。
当時は真剣そのものだったのだけどね。
結局あれから何年経ったかわからないが、私は文章を書き続けている。
読書難民の私が、よくも毎日書けるものだなと思う。
基本的には読んでいない人は書くことも難しいとされる。
私の場合、若い頃は読むことで心を救ってきたが、書くようになってから読む必要が薄れたのかも知れない。
つまらない小説やエッセイを読むくらいなら、過去記事読んでいる方が楽しいわけだ。
決してナルシストではないけれど、一言で言えば文章が躍動しているのだ。
擦れておらず、まるで飛び跳ねているようだ。
それこそ、熱量が半端ではない。
そして悲哀に満ちている。
本だけではない、過去の投稿の一つ一つからそれが伝わる。
恐らく、私の悲哀は読書では埋まらなかったのかも知れない。
やはり自分で書いて、表現することでしか、拭えないのだろう。
ロックを愛する者がリスナーでは収まらず、ギター片手にステージでシャウトするのと同じことのようだと思う。