nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

世の中九十九対一

海と云うのは、埼玉県民にとって縁のない場所である。

たしか、長編小説『ロックンローラー』の発売前に一度見た程度だ。

その時は相模湾だったが、今回は東京湾だ。

スカイツリーと東京タワーを存分に味わうことができた。

念願の東京タワーを見れたぞー!

欲を言うならば、ライトアップされた東京タワーが見たかった。

海に浮かぶ都会はとても綺麗で、心から行って良かったと思うことができた。

レインボーブリッジも見れたし大満足なのだが、とてつもなく寒かった。

太陽の恵みを感じた。

天気は悪くなく、風もなかったが、クルージング中は風と水しぶきとの戦いである。

完全に身体が冷え切った状態で、バスに乗っても電車に乗っても暖まらなかった。

帰宅してこたつに入って、やっと身体の芯の冷えが取れて、安堵しながらこれを書いている。

帰り道、八丁堀に寄り道をした。

初めての街だったのだが、とても美しいビジネス街だった。

日曜日だったので、閉まっている店が多かったし人もまばらだったが、平日の八丁堀の賑わいを想像することができた。

 

 

自然に触れると、大空を飛ぶ私は天に近づくことができたように感じる。

天の声にひたすら耳を傾けていた。

天は私にこう言っている。

人生はチャレンジの連続であると。

そして、失敗の連続でもあると。

私の自論としては、九十九回の失敗の先に大きな「一回」の成功がある。

失敗を繰り返している中で、諦めるか諦めないか、ただそれだけのことなのだ。

失敗の連続は、誰でも消極的になる。

私だって、毎日メソメソしている。

とはいえ、心のどこかで自分を信じている。

私だったら、私みたいなヤツと仲良くなりたいと思う。

私みたいなヤツを見つけたら、世の中捨てたもんじゃないと救われる。

文章を書いているとか、そういうことは大した問題ではない。

人間丸ごと、信頼できると思うだろう。

信頼と信用はイコールではない。

私は実に多くの人から信頼されているが、もっと信用してもらってもいいような気がしてならない。

確かに私には、後ろ盾がない。

それってそんなに大きな問題だろうか?

中にはわかってらっしゃる人がいて、後ろ盾なく生きているからこそ信用できると言ってくれる人もいる。

私もどちらかと云うとそのタイプだ。

後ろ盾がある人のことは、後ろ盾のお陰で生きているんじゃないの?と思ってしまうからだ。

独立自尊で、踏まれても踏まれても這い上がる人こそ信用に値するのではないだろうか。

ところが、どこに属しているかとか、ネームバリューとか、ブランドとか、そういうものにこだわる人が圧倒的に多い。

悲しい世の中だ。

後ろ盾なしで生きることは、どれだけ難しいかを知らないのだ。

処女作『破壊から再生へ』に書いたが、世の中は九十九対一。

この本を改めて読むと、こう書いてあった。

 

 

「手っ取り早く偽物で誤魔化さず、数年かけて本物を見つけてみろ。この世は九十九対一なのだから」

 

 

まさに今の私にピッタリな一行だと思わないか?

そもそも手っ取り早く偽物で誤魔化すことを「あきらめ」と呼ぶのだ。

そう、私は諦めない。

本物にしか興味はない。

偽物だと思ったものは排除してきた。

そして一人になった。

だが、これでいいのだ。

何故、真っ新になったのかと云うと、本物が欲しいからだ。

私は人から信用されなかった時、とても傷つく。

かといって、その人に好かれようとはしない。

九十九回失敗しても、最後の一回の成功に懸ける。

仮に失敗の連続だったとしても、チャレンジはやめない。

その姿は信用に値すると思っているのは私だけだろうか?