新橋で行われたセミナーから帰宅して、慌ててこれを書いている。
先日行われた忘年会と二連ちゃんだったので、少々疲れている。
帰宅してしばらく放心状態だった。
座椅子にもたれ掛かって、無音の部屋で換気扇の音だけ聴いていた。
目を瞑ると意識が飛びそうだったが、目を開けていることが辛かった。
かといって横になったらアウトだと思ったので、疲れた身体に鞭を打ってパソコンに向かっている。
セミナーで『愛の不足感』の話になった。
不足感か、なるほどなと思った。
私は最近やたらと同じことを言っているような気がしてならない。
私の場合は『愛の渇望』だ。
幼少時代、親から愛情を注がれずに育ったので、わかりやすく言えば愛に飢えた状態なのだと思う。
大人になって愛を知り、自他ともに愛せるようになった人も多いかも知れない。
では私はどうなんだろう。
私は大人になっても愛というものがわからずにここまで来たような気がする。
せめて自分のことは愛せるようにと作品に向かい、文章を書いてきた。
ところがここ最近、自分のことが謎である。
果たして『書く』ということは天命なのか、それともただ単に『書く』ことしかできないだけなのか。
どちらにせよ、他にできることが一つもないので書き続ける。
ただ、子供の頃ピアノを捨てたように、ある日突然書くことを捨てる日が来るのではないかと思うと、自分のことが怖くなってしまった。
現在の私は発展途上。
だからこそがむしゃらになって一つのことに集中できるのだ。
これがある地点に到達し、パートナーでもできたら安堵感に包まれて、情熱を失ってしまうのではないかと思ったのだ。
非常に恐ろしいことだ。
そうならないためにはやはり『孤高』を追求し、ストイックに生きることが重要なのだと思う。
死ぬまで書き続けることで自分を保つことができれば、私は大器晩成の人生を送ることができるだろう。
ただし、精神面に目を向けたらどうなのだろうか。
私は愛の渇望を抱えたまま、正常ではない状態で生きることになる。
そもそも『孤高』を極めることは、本当に私が望んでいることなのだろうか。
どうも自分に嘘を付いているような気がしてならない。
だったらどうしたいんだよ!という苛立ちの声がびしばしと聞こえてくるような気がして、今度は恐怖に陥る。
知らない人にまで謝罪したくなるのだ。
作品創りをする上では、異常な精神状態の方が有利だと思う。
それは私の作品を読むとよくわかる。
私はパートナーにも恵まれず、たった一人で生きているから書けるのだと思うからだ。
ここには気を張って生きている自分がいるのがわかる。
身体も疲れているが、心も疲れている。
写真などを見ると、若干寂し気である。
そう思うのは私だけだろうか?
とはいうものの、歳を重ねて益々ロックンロールしているようにも見える。
もっと分かり易く言うならば、寂しさがエネルギーに変わって書くことができるのだ。
そしてミュージシャンは歌を歌うことができる。
寂しさを知らない人が、人々の心を揺さぶるような文章が書けるはずがないとすら思ってしまう。
ボロボロに傷つき、人の痛みがわかる人間だからこそ芸術性が生まれる。
私は覚悟を決めたと最近書いている。
それは書き続ける覚悟だ。
つまり『愛の渇望』を受け入れるということだ。
皆から愛情をもらうことで自分を支えて行けばいい。
物理的には一人でいた方が、いい文章が書けるはずだ。
『孤高』を極めるのは全ては書くため。
何故私が書くことに執着し、情熱を注ぐかというと、他にできることが一つもないからだ。
チャレンジしないのではない。
無論、四十歳過ぎて新しいジャンルに挑戦するよりも、得意分野を伸ばした方がいいと思うのは私だけだろうか。
全ては天命か、それとも生まれながらの障害か、いずれにせよ私には書くことしかできない。
自分を支えるため、自分をコントロールするため、なんとか社会の中で生きるため。