このままここにいるのも悪くない。
ただ、私には目的と挑戦が必要。
地方にいても様々なことに挑戦できる。
経済的に楽になって、執筆に専念することもアリ。
だけど、自力で生きている実感が必要で、私は独立自尊で生きてこそ、訴えられるものがあるという概念を捨てられない。
どうして金も家族もあるのに不幸なオーラを出している人がいるのだろうかと考えてしまう。
私はなんと言われようと、金も家族もないのに幸せ者である。
それは誰もが羨む目標を掲げ、それに向かってアグレッシブに行動するだけの精神力を持っていて、不運を味方に付けて運を手繰り寄せることにまで成功しているからじゃないのだろうか。
私は私みたいなヤツの背中が見れたらどんなに励まされるだろうかと思ったりする。
しかし、私は誰かの背中を追いかけるポジションではない。
自分から先頭切って生きるタイプである。
私のそういう勝気なところをよくよく理解できなければ、一緒に生きるなんて不可能だろう。
先日も書いたが、私ってどんなに寂しくても一人で生きれてしまう人間なんだと思う。
一人じゃ耐えられない、面白くない、など文句を垂れながらも一人が性に合っていると思ったりもするわけで。
かといって、他人と暮せないわけではない。
協調性と順応性が高いからだ。
これは投稿には書けるけど、面と向かって言うべきことじゃないとか、分別も付くわけで。
高いコミュニケーション能力とは、口達者とかそういうことではない。
相手の話に真剣に耳を傾けることができる、いわば、傾聴の姿勢が身に付いていて、年齢立場関係なく、対等に話ができて、いちいち自慢したり馬鹿にしたりしないということ。
着飾らないし、おだてないし、あくまでも素でいること。
もっと言うならば、相手に心を開かせることができるかどうかが問題である。
無意識のうちに、相手は私との空間に心地良さを感じているというのがベスト。
そんな私だが、なんとなくどこかに収まるのが勿体無いような気もする。
ただ、長い将来のことを考えると、身体に鞭を打てるのも今しかないような。
人生は挑戦だ!
などと言っていられるのも今だけのような気もする。
神はズルいよ。
私を試しているようだな。
今まで範ちゅうには全くなかった場所に引き寄せ、ここにも居場所が作れるよって囁いている。
何もかもは帰ってみなければわからないこと。
ここにいれば、日に日にここにいることが不自然ではなくなってくるような気がする。
今想えば、全ては笑い話であり想い出である。
バタクソに疲れて、帰って寝るだけの生活を送っていたのも良き想い出。
再び私を待ち受けている激務。
答えはどこかに転がっている。
それを瞬時にキャッチするのが私の特技でもある。
激務か…。
こなしてみてから出てくる答えを待つしかない。
射手座の私は未知なるものが大好物。
まだ見ぬ世界へは強い憧れを示す。
そんな中、私が愛想を尽かすのは、意気地なしと男らしさの欠落。
一歩踏み出す勇気。
そういうところをサバサバと見ていない振りして、ちゃっかりシビアに観察している。
細かいことは気にしていませんよという素振りで、ちゃんと相手を見極めることは怠らない。
せめて一つ、尊敬できるものが欲しいかも。
役職じゃない、金じゃない、でも稼げるところは評価したいみたいなね。
この世には三つしかない。
愛、金、尊敬だ。
人から尊敬される人は確実に際立っている。
権力を振りかざす人は、自分が何も持っていないと言っているようなものだ。
愛とは、捧げるもの。
私くらいになると、愛されてなんぼだと思っている。
愛しているなら金だって注げるはず。
それができないのは、ぶっちゃけ愛していないのだろうね。
綺麗ごとこそ、この世には要らないのだと思う。