無事に四連勤を終え、角ハイボールを飲んでいる。
帰宅したら二十二時だった。
冷蔵庫の中にはキムチと納豆しか入っていないので、ラーメンサラダを買ってきたのだが、時間が遅い。
でも空腹だったので、食べてしまった。
休みの前の日こそ早く寝たいと思う私は、やはり疲れているのだろう。
幸い私には仕事が終わったらこれを書くという縛りがあるので、飲み歩こうという気にはならない。
翌朝も早起きしなければならないからだ。
これを書くということが無くなったら、私はどうしようもない人間と化すだろう。
終電に乗り遅れ、どこかに泊って、朝遅くまで寝ていることだろう。
仕事へ行く時に、お泊りセットを持参するのをやめた。
誰かから誘われるわけでもないのに、重たい荷物を背負って会社へ行くのが阿呆らしくなってきたからだ。
鞄の中はシンプルでいい。
財布と携帯電話があればなんとかなる。
そう考えると、鞄すら要らないくらいだ。
給料が入ったら靴が欲しいのだが、どうなることやら。
新品の真っ白なスニーカーが欲しいのだが、そこまで余裕がないかも知れない。
酒と煙草を止めればスニーカーが二つか三つ買えるのだが、それとこれは話が別だ。
金が無いわけではなくて、金の使い方がちょっとおかしいだけだ。
考えたらアパホテルに泊らなかったらスニーカーくらい買えただろうに。
仕事中は仕事に集中しているので、仕事が終わったら何を書くかについてあまり考えない。
帰りの電車の中でも気が散って、結局帰宅してから白紙に向かうことになる。
書きたいことがあって余力がある時はいいが、クタクタだったり、ネタがなかったりすると、なかなかの拷問である。
先ほども書いたが、これを書くというルーティンを失えば、確実に堕ちて行くことだろう。
だからどんなに疲れていても、このルーティンにしがみついている。
そこで閃いたのだが、仮にルーティンを失っても仕事があるうちは何とかなるということだ。
生活費を稼ぐためには、出社し、労働し、帰宅して寝るみたいなルーティンはエンドレスなのだから。
昔、誰かが言っていた。
貴女は書くことをやめたら楽になるってね。
ただ笑って飯食っていられればそれでいいというのが実現すると。
それを言ったのは、精神科医である。
『バカボンド』という漫画を薦められ、読んだ方がいいと言われた。
読まなかったけれども宮本武蔵のことが書かれた漫画だそうだ。
宮本武蔵は刀を捨てた。
私が書くことを捨てるのと似ているとでもいうのだろうか?
精神科医はこう言った。
熱中しているものへの執着を捨てろ、と。
考えてみれば、私の情熱はある意味病的なのかも知れない。
稼ぎもないのに、一つのことへの執着が半端ないのである。
心の支えと呼び、多大なエネルギーを注いでいる。
時にそれは、ピアノだったリプレス加工だったりした。
何年もの間、毎日毎日向き合っていないと不安で仕方がないのである。
それなのに、ある日突然情熱とサヨナラする時が来る。
その代わり、新しい情熱に出会う。
ピアノを捨てた私は借金返済と料理に目覚めたように、プレス加工を捨てた私は書くことに出会った。
書くことを捨てたら何かに出会える奇跡があるのだろうか?
楽になるとは思えない。
書くことがあるから一人の生活に耐えられるのだ。
一人の時間がなければ書けないからだ。
それを支えてくれているのは読んでくれている人達なわけで。
いつか誰かに認めてもらえると思うのは誇大妄想なのだろうか?
病的な発想なのだろうか?
大なり小なり芸術を志す者はそんなものだと思うが違うのか?
私は一体何を目指し、どこへ向かうから書き続けているのか?
楽になるよと言われても、今は決して辛くはない。
執着を捨てたら堕ちて行くことの方が、よほど辛いのだが。