たまに思うことがある。
どうして人は人に優しくできるのだろうかと。
私なんて冷たくすることしかできないけどね。
体当たりしているようで、逃げることばかりのような気もする。
仕事もパッとせず、ボロクソに疲れて帰宅したら頼んでもいない化粧品が届いていた。
コールセンターに電話して怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、営業時間外だった。
なんだか無性に遣る瀬無くなった。
鏡を見たらすこぶる疲れた顔をしていて、一気に老け込んだ気分になった。
そしてまた思うのである。
人になんて優しくできない。
会社での私は『疲れた』が口癖である。
皆が同じように疲れているとわかっていながらついつい口にしてしまう。
辛うじて私の方が皆より年上だから許されているが、昔はよく叱られたものだ。
私が『疲れた』などと言うと、『皆、疲れている』とね。
帰り道、星の見えない空を見上げてこう思った。
一番害のないのは、悩み相談室にでも電話して愚痴ることではないかと。
私への愛がない、ただ聴くだけの人に話をするのは果たして虚しいだろうか。
少なくとも悩み相談室にいる人の愚痴は聞かなくて済む。
コミュニケーションが取りたいようで、そうでもないのか?
聴いて欲しいだけなら、悩み相談室に金でも払うのが一番いいかも知れない。
職場の人に愚痴るのも面倒だ。
イエスマンがいるとしたら、それはそれで癪に障る。
かといって知ったかぶりされるのはもっと嫌だ。
私は仕事の忙しさに上手く逃げているだけで、現実から目を背けているのだろうか。
何故、人は私に優しくするのか、私にはわからない。
会社で周りが優しいのは、私が金を産むマシーンだからだ。
給料泥棒が続いたら、私に優しくするのをやめるだろう。
解り易いと言えば、非常に解り易い。
時に人は、私を見て『まだまだだな』みたいなことを言う。
成長が足りないと云う意味だ。
私はずっと人生というものは、何かを成し遂げるためにあるのだと思っていた。
でも一概にそうとは言えないのだと知ってしまった。
この世には、生まれてただ死ぬだけの人が五万といることを。
そして何を隠そうこの私は、その中の一人だと。
何を卑屈になっている、夢を見ろ、諦めるな、そういう声が聞こえてきそうだ。
あの頃を取り戻せ、あの頃の自分はどうした、道に迷うなと。
目を覚ませ、神は見ている、皆仲間だ、幸せになれと。
いやいや、私はそれらの言葉を浴びるたび、悔しくて仕方がない。
どうした?何があった?
その問いに私はもう答えることがないと思う。
これ以上人間不信にもなりたくないからだ。
何だかんだで私を唯一救ってくれるのは、本当は理解者でしかない。
死ぬまでに出会えれば万々歳。
しかし、恐らくいないだろう。
だから百歩譲って共感者に出会いたい。
イエスマンではない。
医者ほどの知識がなくたっていい。
優しくしてくれなくたっていい。
自分のエゴは抜きに、私の話に耳を傾けてくれる人がいたらいい。
絶望とは、そんな人が全く見えなくなった状態のことを言う。
止まない雨はないと言う。
かといってこの世には解決しないこともある。
ベートーヴェンは、困難を喜びに変えたらしい。
もしそれが神業で、だから人々から尊敬に値するならば、勝手にやってろや、と思った。
私は自我だけ強い、卑屈な凡人。
親にも神にも見放され、仕事でしか喜びを見出せない悲しい人間だ。
笑われる筋合いもない。
ただ、想うことは、きっと今誰かに抱きしめられたなら号泣するだろう。
それが理解者でも共感者でもなかったら、触るんじゃねーよって言いたいのだが。
泣いてしまいそうだから、優しくされることから逃げるのかも知れない。
きっとあらゆることが悔しいからだ。