nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

納得できない人生

休みなのにバタクソ忙しい一日だった。

疲れが溜まっているのに、休む暇なし。

一気に疲れが押し寄せそうで、酒を飲むのが怖いよ。

連日の酷暑から解放されて、過ごし易いのは私だけだろうか?

 

 

恐らく私は理想を持っているのに言語化できないだけなのだと思う。

具体的には、やり甲斐のある仕事と、愛する旦那。

この二つに辿り着けば、納得はできるはずだ。

私は一つの会社に辿り着いたけど、ここがゴールだとは思っていない。

かといって、私にはやりたい仕事がない。

売りたいものもない。

ただ、文章を書くことに何故か執着してしまい、ルーティンにし、今の今まで続けている。

営業職だって、やりたくてやっているわけではない。

神が私に差し出したから、そこから逃げずに体当たりしているだけの話。

他に自分に適した道があるならば、いつでもこの身を投げ売ってもいい。

ところが、書くことだけはどうも捨てられない。

愛する旦那ができたとして、果たして書くのをやめろとなんて言うだろうか?

そんなこと言うような人は選ばない。

何故、彼氏ではなく愛する旦那なのかについては、曖昧さは要らないからだ。

たとえお友達から始まったとしても、生涯を共にできないようならば、それは本物ではないということだ。

家庭と書かないのは、私は子供は産まないからだ。

それでも旦那の名を誇り、永遠の愛を誓うことに変わりはない。

とはいえ、書き続け、試行錯誤しながら生きることはやめない。

死ぬまで私はある意味どんな形であれ『人前』に出る。

 

 

たまにこんな人を見かける。

周りから美化され、称賛され、買い被られて、自分を人々の理想に追い込んでしまっている人だ。

ハッとすることがある。

まるで、いつかの私のようだからだ。

多くの人は私にこう言う。

 

「蓮さんには幸せになって欲しい」

 

その『幸せ』とは一体何なのだろうか?

私はまるでその意味がわからないと反発し、求めているのは幸せではなく『納得』なんだと叫んでいた。

しかし、少しばかり気持ちが落ち着いてくると、幸せという抽象的なものへの理解を示せるようになる。

誰も私の孤高な姿を望んでいない。

孤高に追いやっているのは私だけであると。

だとしたら孤高=一人という図式を手放してもいいのかも知れない。

恐らく、心の奥底に恐怖があるのだ。

一人を手放した時、私はアイデンティティを失うような気がして。

だとしたら、恐怖が私を幸福感から遠ざけているとも言える。

つまり、幸福を手に入れることに対してメンタル的なブロックがあるということだ。

幼少期に遡ると、理由は明確である。

自分さえ我慢していれば皆が幸せになれるという概念に囚われていたからだ。

母さんが不幸なのは私のせい。

家族の仲が悪いのは私のせい。

家を飛び出しても尚、社会の中でブロックを外すことができなかった。

理想とする姿は、自分の中にある苦手意識を浮き彫りにすることで明確になるのではないかと考えた。

結論としては、ブロックを外した自分をイメージできれば見えてくるとわかった。

 

 

思考は現実化するというのは本当で、私はこれまであらゆる理想を手に入れてきた。

しかし、ある地点から先に進もうとした時、理想がわからなくなってしまったのだ。

もっと言うならば、あらゆるものを犠牲にしてストイックに生きてもこの程度の人生にしかならないことがわかってしまったのだ。

愛し愛されることを捨て、富を捨て、安定を捨て、安らぎを捨て、夢をも捨てた。

そこまでして手に入れたのは、とある会社から直接雇用してもらうことだった。

雇われることの楽さを知り、喜びを知り、難しさを知ったけれども、私が手に入れたかったのはこんなことなんだ?

その時見たのは果てしない喪失感。

手にしたけれど、納得には及んでいないことを実感した。

私の葛藤は続く。