イチローみたいになりたいと思ったことがあって、イチローの本を読みまくっていたらこう書いていた。
「ルーティンを味方につけることが一番の近道だ」
それを鵜呑みにして何ができるか考えた時、私にできることは書くことしかなかったということだ。
金もない私は、メンタルトレーナーを付けることもできない。
しかし、ブレない折れない心が欲しかった。
成功してみせると思っていた。
私にとっての成功とは、理解者を見つけることだった。
命を投げ捨ててでも、理解者が欲しかった。
しかし、なかなか出会えなかった。
書くことをルーティンにしてから、ここまで来ると、習慣で書けるようになった。
継続は力なりってそういうこと。
考えながら書いていない。
もっとイージーに、飲みの席でベラベラ喋るように書いている。
昔はあーでもないこーでもない考えていた。
ネタさえあれば千五百文字くらいなら、三十分掛からない。
投稿を楽に書けるようになってから、他のことができるようになった。
勘違いと直感の違いは微妙な差である。
直感的にあの人は私のことが好きなんだと思うことがある。
だけど、勘違い野郎の自惚れという場合もある。
どちらにせよ、自分に都合良く考えた末のお気楽者には変わりない。
しかし、鈍感であるより遥かにレベル高いと思う。
百戦錬磨の私くらいになると、実に都合よく勘違いすることができるが、外れてはいないのだ。
例えば、あの人は私のことが好きなんだ!という直感は当たっているが、でもあの人は一人が好きなんだっていう読みも当たっている。
そうやって勘違いのような直感を駆使して、あらゆる人のことを見つめている。
アンテナ張っていれば、出会った時にわかるはず。
そんな私にとって、到達点を決めるのは決して難しいことではないはずだ。
オリンピック選手には金メダルがある。
しかし、私にはどんなにストイックにオリンピック選手を真似てみても着地する場所がない。
やはり自分の中で、到達点を決めなければ、何もかもが勿体無いのである。
恐らくコールセンターは、止まり木みたいなものだろう。
これから大海に出るにあたって、オアシスみたいなものなんだろう。
だとしたら、ここではそこまでストイックにならなくても良かろう。
私にはもっともっとスケールのデカい旅が待っているのだ。
そこまで考えることができても、また立ち止まる。
だから世界で何がしたいんだよ!
そこがまたわからない。
文章を書く人は、誰もが作家を目指すのだろうか?
それはあまりにも短絡的なような気がする。
あれだけの情熱でピアノを弾いていたのに、到達点が見つけられずにやめてしまった。
文章を書くことに於いても同じことが言える。
やはり到達点を明確にしなければ、心折れる日が来ると思う。
新人賞を取り逃がし、実はめちゃくちゃ落ち込んでいた。
折れそうな心をなんとか立て直したのは何なんだろう。
そこすら曖昧だ。
ただ、手に入れたものがある。
見たこともない自由。
会社勤めして、片道一時間満員電車に揺られているのにここまで自由を感じることができるのも、私くらいではないだろうか?
自由を感じているのに尚、納得できないのは何故なのか?
こんなもんじゃない、もっともっとの気持ちが強い。
会社の社長も仲間達も大好きである。
だけど、私が命懸けで追い求めたものではないのだ。
それなりの代償を払って生きてきたので、やはり高望みしてしまうのだ。
しかし、それは富や名声や地位などというものではない。
あぁ、生きるって何なのだろう。
いい歳こいて生きる意味がわからない私は愚かだろうか。