nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

人対人

約三ヶ月前に買ったホタテを自然解凍して食べたのだが、冷凍焼けしていて食えたもんじゃなかった。

一キロも買ったので、結構な量が残っていた。

自炊をしない一人暮らしは、この手の買い物はしてはならないなと思った。

最近酒も飲んでいないので、寄り道も殆どしなくなった。

携帯電話のバッテリーが調子悪いので、音楽も聴いていない。

ただ当たり前のように電車に乗って会社へ行き、働いて、電車に乗って帰ってくるだけの日々。

休日も自宅から殆ど出ずに、リモート勉強会に参加している。

実にシンプルな生活なのだが、私の中では激動の日々である。

 

 

というのも、今までは当たり前だったことが、勉強会を機にガタガタと崩れ落ちるかのように革命が起ころうとしていることに気づいた。

例えば、仕事が終わったら文章を書いて、朝起きたらアップするということ。

それについて長い間、疑問を感じることはなかった。

勿論楽しかったし、遣り甲斐もあった。

まだ見ぬ理解者に出会うためと云うスローガンを掲げ、とにかく毎日書きまくった。

ところが、気づいたら私の周りには私を理解してくれる人しかいなかった。

充分に橋岡蓮という人間は理解され、受け入れてもらい、共感もされている。

ところが、書き始める前は、誤解されてばかりの人生だった。

それが嫌で、悔しくて、悲しくて、寂しくて、私は書きまくった。

そのステージは、どうやら終わり、且つ、過去には戻れないようだ。

だとしたら、今いるステージに於いて、何を胸に秘め、何を想って書き続けるのかを明確にしなくてはならない。

それは簡単に見つかるものではないし、見つけるためには書き続けなければならない。

歩みを止めた時点で、見つかるべきものの全てを失ってしまうことは痛いほどわかっている。

所謂、これも旅である。

 

 

歩き続けた先にきっと『これだ!』というものに出会うだろう。

人生とは出会いの連続かも知れない。

別れの連続と言う人もいるかも知れないが、私は別れにフォーカスを当てていない。

別れる人とは単純に縁がなかったから離れただけと思っているからだ。

出会うことは、ある意味勝ち取ることでもある。

これまでの人生で歩みを止めたら手にできなかったものだからだ。

ところが別れと云うものは、自然現象に近い。

バチンと音を立てて衝撃的出会いを果たすのに比べ、まるで湯気のように空気の中に消えてゆくのが別れだ。

そもそも、縁がなかったから別れるのだ。

その別れこそが、後の衝撃的出会いを引き寄せる。

だとしたら、私の場合は価値ある出会いのために、積極的に別れを選択することさえある。

一度くっついて二度と別れない人が本物だ。

その人は、もう既に出会っているような気もするがどうなのだろうか。

こればかりは、その人にしかわからないことだ。

 

 

勉強会を機にステージが変わったな、と思っていたらあっという間に八月。

お盆休みがある代わりに、シフトを詰め込んだし、勉強会などもあって忙しない一ヶ月になるだろう。

最近言い聞かせていることは、大人対応しろってこと。

腹が立ってもグッと堪えて、笑顔でサラッと交わす。

私は大人であると脳とハートに植え付けている。

ガキ臭くてなんぼなどと開き直るのは止めた。

その結果、大人対応の行く末は、お互いにストレスフリー。

こちらが一方的に我慢するのではなく、これで良かったと思えることが多い。

私がずっと心掛けてきたこととは、人対人のコミュニケーションである。

それが上手く行かなくて途方に暮れていたのだ。

 

『今日ね、こういうことがあったの』

 

それに対して、

 

『あっそ』

 

みたいなことがあまりにも多すぎた。

でもそれは原因が私にあったのかも知れない。

そんなことをふと思った時、それについて悲しんでいる暇はもうないのだと自覚した。