勉強会が終わって外に出た。
まだ明るかったが夜予定があったので、早めの夕飯のために中華食堂へ。
とりあえずかに玉と生ビールを頼んでこれを書いている。
仕事は休みで朝遅くまで寝ていたのに疲れが全く取れず、勉強会の途中もQPコーワゴールド錠剤を飲まざるを得なかった。
というのも勉強会はヘビー級の難易度である。
五時間に及ぶロングレースは、体力を消耗する。
あぁ、生ビールが美味いよ。
かに玉が来る前に飲み干してしまいそうだ。
中華食堂はアパートから徒歩一分の距離で、月に一度のペースで訪れる。
七十代の夫婦がやっている店で、妙に落ち着くのは信頼関係が出来上がっているからかも知れない。
携帯電話を手にして黙々と文字を打つ私を放っておいてくれるからだろう。
決して美味い店ではない。
それでも行くのは、ただ単に近所だからかも知れないが。
私は並んでまで美味い店へ行きたいとは思わないタイプ。
多少は不味くても居心地の良さを選ぶ。
それは人間関係にも通じるものがある。
競争率の激しい完璧な人より、一緒にいて楽な人を選ぶ。
私も完璧な女にはなれないから、居心地が良いと思われたい。
そのためには何が必要なのか?
そもそも勉強会『マスタライズ』DAY4に参加させて頂くまで、肝心なことを履き違えていたのである。
話したい相手に自分の話を投げかけて話題作りのきっかけを作ることを『傾聴』だと思っていたのである。
そうか、だから今まで上手く行かなかったのかも知れない。
例えば、私は一方的に相手へ自分の話をしていたからだ。
それは相手が私に興味がなければ何の意味もなさない。
終いには、どれだけこちらから話を投げても心を開いてくれないことを嘆いていた。
相手の心を開くための質問になっておらず、ただの『自分報告』になっていたのである。
これって驚愕なのは私だけだろうか?
まったく、コミュニケーションって奥が深いぜ。
結局私がしたいことは意思の疎通である。
どちらか一方的ではなく建設的な会話がしたいのだ。
そんな風に想うことってないだろうか?
愛がなければ会社の雰囲気など改善しないのと同じ。
互いに向き合う気持ちがなければ成立しない。
しかし『愛』という表現はどこか漠然としていて抽象的である。
私はこの世に於いて疎外感を抱くのが当たり前となっている。
誰とも合っていないじゃないかと云う感覚。
ところが、それはこちらが相手の深層心理を引き出す術を知らないだけだとしたらどうだ?
こんなに勿体無いことってあるだろうか?
中華食堂を出てアパートに着くまで空を見上げてみた。
相変わらずパッとしないかに玉だったが、癒された気持ちになった。
放っておいて欲しい私にママやマスターが話しかけてきたら、この居心地は成立しない。
もしかしたら私は放っておいて欲しい相手に『自分報告』などと云う愚かなことをしていたのかも知れない。
そう考えると、まずやらなければならないことは、自分で自分を癒すことだと思った。
こうして文章にしてアウトプットすることもそう。
自分のことは自己完結できるようになれば、一歩前進するような気がした。
その上での意思の疎通、つまり、コミュニケーションだ。
さて、あなたは大切な人と良質な意思の疎通ができていると言えるだろうか?
願いはあってもそれが上手く行かないと悩むことはないだろうか?
聴いている振りして自分の話を押し付けてはいないだろうか?
構ってちゃんの承認欲求に苦しめられていないだろうか?
大切な人に振り向いてもらえず寂しい想いをしていないか?
私みたいにワンランク上の人間を目指している人はきっといるはずだ。
失敗ばかりの人生はないが、経験を活かすのは努力と才能である。
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