nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

畑を耕すとは?

真夜中の満員電車の中。

平日の夜なのに混んでいる。

池袋のプロントを出た私は、『日高屋』と『富士そば』の前で立ち止まったものの、またもやスルー。

空腹のまま電車に飛び乗ってこれを書いている。

今考えていることを一気に書く。

 

 

『畑を耕す』

 

 

え?

キリがないからそんなことやめて、現実的なことをやりなよ!

って言う人がいるかも知れない。

私にとって『畑』とは、書くことかも知れない。

もはや日記の枠を飛び越えて、哲学の域に入っている。

それをどんどん深掘りして行くことが、私の人生であるかのように。

しかし、最近思うことがある。

深掘りすればするほど、自分が遠くへ行く感覚に包まれる。

遠くへ行きたいとあれほど願っていたのに、寂しくなるのはなぜだろうか。

皆を置き去りにし、私だけが一人で旅立つような気がしてしまう。

気がするのではなく、もう遠くまで来てしまったのかも知れない。

私はとある船に乗り、航海に出た。

降りるという選択肢はなかった。

その先に待っているのがまだ見ぬ世界で独りぼっちだとしても。

 

 

いや、独りぼっちということはないだろう。

とんでもない人が手を振って待っているのかも知れない。

ただ言えることは、誰かを道連れにはしない。

容易い航海ではないからだ。

私がこれだけ来なくていいと言っているにもかかわらず、どうしても蓮さんと同じ船に乗りたいんだと云う人のみ歓迎する。

え?

船には興味がないけど、蓮さんとは一緒にいたいよ、っていう人のことはどうするの?

 

 

ん〜、ぶっちゃけそれが友達なのかも知れない。

互いに同じ船には乗らなくとも、対等でいられる人が。

 

 

見返りなど求めてはならない。

例えば私が何をしようが、それに対する応援や共感など求めてはならない。

求めてしまうとしたら、それは見返りだろう。

応援も共感も無しに、なぜ友達でいる必要があるのかと思ってしまうこともある。

ただ、何もできなくても応援してくれる人もいる。

何なんだろうね?

いつの間にか仲良くなって、いつの間にか疎遠になるのが友達だとしたら、移り変わって当然かも知れない。

 

 

話を戻そう。

『畑を耕す』

 

 

これが本当に必要だと、私は初めて知ることができた。

書くことなんて金にもならないことを一生懸命やることは、時として馬鹿にされた。

自費出版で本を書くことも、理解されなかった。

しかし、畑を耕してきたことに繋がるのだと思った。

種を探しては飽きて、芽が出ないと言っては別の種を探す。

そんなことには全く価値を感じなかった真意がわかってきた。

なぜなら、畑を耕すことの方が必要だからだ。

これって難しくない?

耕された畑を持つことの必要性。

わかる人ってもしかしたら少ないかも。

 

 

もっと具体的に言おうか。

文章を書いているよりも、営業スキルを身につけた方が稼げるし、生き易いのである。

自分哲学などに従わず、社畜になり、会社の奴隷になっていた方が給料は上がる。

ところが、私みたいなヤツはスキルだけの人間には着いて行こうとしない。

従わないし、尊敬しないし、目指そうとしない。

それでも人は、自分に着いてきてくれることより目先の給料アップを目指す。

なぜなら、自分のことしか考えられないからだ。

そのことに恥や躊躇いを感じる人間なら、スキルだけではダメなんだと気づく。

残念ながら、気づかない人の方が大多数だ。

仲間や大切な人などと云うのは綺麗事で、皆は他人、大切なのは自分だけだと思っている。

もっと言うなら、人望などと云うのはどうでもいいこととされがちである。

特に営業の世界では数字を上げられる人に人望は集まる。

しかし、私はひたすら人間性とその人の言動を見ている。

なぜなら、私にとっては『種』、つまりスキルより『畑』が大切だと思うから。