nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

せめて独立自尊

朝ゆっくりしてホテルを出て、そのまま新宿へ行った。

あまりにも空腹だったのだが、ホテルの朝食バイキングは摂らず、新宿東口にある沖縄料理店に入った。

ホテルの部屋の中が非常に乾燥していて喉がカラカラだったので、オリオンビールを飲んだ。

ゴーヤチャンプルーとソーキそばはとても懐かしい味がしたが、レベル的にはまぁこんなものかな、という感じだった。

チャンプルーは美味だったが、ソーキはさほどでもなかった。

しかし、久々に飲む泡盛はなかなかだった。

ロックで一杯飲んだだけで眠たくなってしまったので、その後はオレンジジュースで我慢した。

 

 

なんせ十一時開店を待つのがとても辛かった。

前日、昼に食べたきり何も食べず、ビールをすきっ腹に流し込んで寝てしまったので、胃袋の中が空っぽだったのだ。

ソーキそばではなく、沖縄そばの方がかえって良かったかも知れないな、などと思ったりした。

まぁそれでも場所は東京のど真ん中。

沖縄ではない。

ただ、もう少し安ければ嬉しかったかな。

 

 

沖縄料理店を出て、買い物をするでもなく最寄り駅まで戻り、駅前のスーパーで夕飯用の鍋セットを買って帰宅した。

そして、今日こそは早く寝るぞという気持ちでこれを書き始めている。

まだまだ時間はたっぷりとあるのだが、少々風邪気味のため、栄養ドリンクを飲んだところである。

洗濯機を回しながら、ファンヒーターを背にしてパソコンに向かっている。

先日も似たようなことを書いたかも知れないが、最近私の中で革命が起こっている。

それは人にお会いしたりした結果得られたものもあれば、『ロックンローラー』の執筆を通して気付いてしまったこともある。

単刀直入に言えば、私はこのままでは一生くすぶったまま終わって行くということだ。

願う姿は、独立自尊

成功とか富とか地位とか名誉とか、そんなことではなくて、せめて独立自尊であれば自分を保つことができるはずだ。

私が異端児であろうが、社会不適合者であろうが、独立自尊さえできていれば、もっともっと私は開き直って堂々と生きられるはず。

最近考えることは、狭い世界で生きて行けばいいのではないかということだ。

数少ない理解を示してくれる人と共に、彼ら彼女らを大切にしながら、たった一人で運命を切り拓けばいいのではないかということだ。

理解者を求めない生き方は強さを引き出すかも知れないけれど、弱さを全面的に出すのも一種の強さだとも思っている。

なぜなら、私から見ると、少数派を除いた多くの人々は、自分の弱さを悟られまいとして生きているように見えるからだ。

それは恐らくやせ我慢ではない。

偽善に近いのだ。

人気や共感を得たいがために、幸せそうなふり、楽しそうなふり。

本人に直接訊いてみたらそうでもない、というようなことが多々ある。

なぜ、彼らは楽しいふりをしているのだろうかと考えることがたまにある。

恐らく他人の目を気にしているのだろう。

人々から幸せそうだとか楽しそうとか思われていることに安住しているのだと推測する。

一体何のために?

たぶん本当はそれだけ、他者の判断にすがって生きている証拠だと思う。

リア充」って言葉はもう死語かも知れないが、それを見せつけることで自分を保っているところは少なからずあるのだろう。

これは偏見ではないと思っている。

嫉妬でもない。

当たり前だが、全く羨ましくもない。

ただ、白けてしまうだけ。

んでもって、あぁ、私って社会不適合者なんだなと再認識するのである。

そんな時、隣にあるのは本だったりする。

辛うじて、私は神から『ロックンローラー』の書下ろしという天命を与えられたが、それがなくなった後の虚無まで用意されている。

打ち込むものがあるうちはいいが、何もなくなってからが本当の勝負。

仮に発売後、生きていればの話だが。