橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

不幸を「幸い」に転じる

介護職を始めて、体を鍛えている私。

こりゃ、腕力ではなく体幹だなと思ったので「インボード」というものを買った。

初めて使うものなので、安いものを買ってしまった。

日曜日の午前中に届くそうなので、楽しみである。

体型維持のためでもあるが、介護で腰を痛めないためでもある。

気合い入り度、半端なくない?

早速、ガッツリ鍛えようと思っている。

どこまでできるかわからないが。

職場のリハビリセンターで、利用者さんから若く見えると言われて少々舞い上がっている私。

やはり女。

多少なりとも若く見られたら嬉しいものである。

四十二歳ですよ、そう言ったら驚いてくれた。

お世辞を言いそうもない方なので、本当に嬉しかった。

 

 

ところで話は変わる。

私ってぶっちゃけ五歳年の離れた弟が生まれてから家庭運が崩壊した。

弟だけが可愛がられるようになってしまったからだ。

弟には何の罪もない。

むしろ、私は弟を溺愛していた。

それなのに家庭は崩壊してしまった。

私と母親の仲は、悪くなる一方。

家庭の愛情に飢えて育った私は、十代に入ってから良からぬ道を歩むことになる。

それでも私は人間とはどうあるべきか、世の中はどうあるべきかと必死に考えた挙句、自分の人生を「幸い」に導くことができた。

それはどういうことだろうか。

 

 

「幸い」に転じるとはポジティブ思考を持ち、不運を不運と思わず、自分にとって当然の仕打ちとして受け入れ続けた結果のことではないか。

身の上に起こった出来事を全て、必然と思えたかどうかではないか。

例えば、私が愛情に満たされた人間だったら、『破壊から再生へ』

や『ロックンローラー』は書けなかったわけだ。

となると、今いる人間模様も変わってきたはずだ。

ということは、逆に、今いる人々はある意味私が勝ち取った人と言ってもいいかも知れない。

人間と人間は同じような人種を引き寄せるとよく聞く。

つまり、私が幸せなオーラを出していなければ、出会わなかった人々だということだ。

ポジティブだけど、ちょっとセンチメンタル。

明るいけれどバックボーンは暗い。

繊細だけど大雑把みたいな。

そんな私だからこそ、良い引き寄せができたのだと思っている。

 

 

不幸を「幸い」に持って行くのは誰にでもできることじゃない。

自己肯定できるかどうかに懸かっている。

そして何より、自己肯定するためには自分を愛することが大切。

じゃあ何故自分を愛せるようになるのか?

私としては世の中に疑問を持つことから始まると思う。

周囲を見渡した時、違和感のようなものを感じたことはないだろうか?

どうして私だけ周りに馴染めないのだろう…。

どうしてこんなに虚しくなるのだろう…。

社会に揉まれ、ある程度周りが見えてくると、その原因は自分にあるのではなく、世の中の歪みにあることに気がつく。

当然のことながら、何でも人のせいにするとかそういうことじゃない。

何事も人のせいにできない自分は正しいということに気づかなければならない。

世の中は何かが間違っていて、だからこそ自分は孤立してしまうのだとわかる必要がある。

しかし、そんな自分のような人も大勢いて、一パーセントの人間は似たような悩みを抱えている。

九十九パーセントは、その悩みを見て見ぬ振りしているのだと悟ること。

そうやって自己肯定感を上げていくのだと、私は思う。

自分のことを愛せるようになったら、そこにあるのは「幸い」である。

このためにあの過去があった、こうなるために全ては糧になってくれた。

そう思うことがきっとできるはずだ。

人間にとって人生は一度。

人生というものは半端に途切れたりしない。

ずっと繋がっているのだから、過去を「幸い」に転じることはさほど難しいことではないはずだ。

そうすれば、生き易くなるのではないだろうか?